森林鉄道段戸山線の概要
(一部「1世紀の年輪・名古屋営林支局編」より抜粋・関係者からの情報含む)
愛知県の北東部にあり昭和43年8月31日に廃止された田口線を起点とした森林鉄道は田口と田峰に施設され、当時の帝室林野管理局ではこの二つを総称して森林鉄道段戸山線と呼んだ。段戸山の御料林(旧憲法下で皇室所有の森林)から切り出す木材を三河田口駅と田峰駅まで運び、田口線で輸送するために作られた森林鉄道である。当時皇室の主な財源であった御料林の木材輸送を、非効率的な河川利用から、鉄道輸送に転換しようとしたためである。帝室林野管理局が田口線資本金の4割を出資しており、田口線は御料林を運ぶために作られた鉄道であったとは過言でないだろう。
上記の非効率的な河川利用は管流し(くだながし)と言い、木を川に流し川の流れで下流へ運び、下流の流れが緩くなったところで筏にして運ぶ方法である。一見乱暴な方法に見えるが当時は一般的だったようで、他の御料林でもこの方法が多く用いられていた。寒狭川でも田口線ができる前はこの方法で運んでいたが、文字通り狭く流れが激しい寒狭川では木の傷みが激しく悩みの種だった。こういったことから木材の鉄道輸送は必須であり、田口線の施設が求められたのである。
田口線の終点三河田口駅を起点とする森林鉄道は延長9462mの段戸山線田口本谷線(ほんたにせん)と、起点から2kmほどのところから西に分かれる延長5851mの段戸山線田口椹尾線(さわらごせん、椹後とも書く。地元人ではない人はさわらおと読んでしまうが本当はさわらごなのでご注意を)で構成されていた。本谷線の本谷とはここが本当の谷で、段戸山の裏にある谷を裏谷と呼ぶのである。このことは田口でも知らない人が多いので、ぜひ覚えておいていただきたい。今でこそ椹尾は無人になり荒れ果ててしまったが、私が小学生の頃はまだ椹尾には人が住んでおり、松戸椹尾(まつどさわらご)という通学団があり運動会では通学団競争というものがあったほどだ。ただ生徒が少ないので、いつもビリだったが。以前彼らは田口の小学校まであまりに遠いため、途中で行くのをやめ、椹尾近くの川で遊んでそのまま家に帰ることもあったと聞くが、私が小学生の頃このようなことはなかった。なんにしてものんきな時代であった。
田口にはそれ以外に田口本谷線の終点手前の事業所あたりから西へ分かれる新山線、田口椹尾線の途中、田口本谷線との分岐点から数百メートルほど進んだ地点から西北西、山ノ神方面へ分岐する山ノ神線という2線もあり計4線で構成されていた。
田峰駅を起点とする森林鉄道は延長18800mの段戸山線田峰鰻沢線(うなぎさわせん)と延長7220mの段戸山線田峰栃洞線(とちほらせん)の2線があった。
しかし、田口新山線と山ノ神線は正式な記録には残っていないし、関係者の話も曖昧である。特に新山線は全て木を組んだ橋のようなものだったと聞いたが詳細は不明である。この2線については当時の作業者数人にインタビューしたが、誰も詳しいことは知らなかった。よってこの2線についてはここでは触れない、というより触れられないといったほうが良いだろう。
田口本谷線は昭和15年から28年にかけて施設され、昭和35年に撤去された。田口椹尾線は昭和9年から27年にかけて施設され昭和27年から36年にかけて撤去された。
田峰鰻沢線は昭和6年から28年にかけて施設され33年に撤去された。田峰栃洞線は昭和7年から26年に施設され、昭和34年から37年にかけて撤去された。このように施設と撤去が並行して行われているのはおそらく施設しながら近くを伐採し、終わったら次々と先へ伸ばしていき、終点近くでの伐採が終わったり奥本谷など索道の起点近くの伐採が終われば、少しずつ撤去しながら残った周りの部分を伐採してきたためだろう。
三河田口駅起点の森林鉄道は本谷線が本線で、椹尾線が支線との記録があるが、上記の記録だと椹尾線のほうが施設が随分早いので、三河田口駅から最初に施設したのは椹尾線で、その後分岐点から本谷線を施設したと考えることが自然だろう。しかし椹尾線が三河田口駅を起点とするなら全長が5851mではあまりにも短すぎ、説明がつかない。まさか三河田口駅と分岐点までの施設より前に分岐点から椹尾までを施設したなどということはありえまい。インタビューした作業者の皆さんもこの理由はご存じなかった。施設したころの関係者はとっくの昔に鬼籍に入っており、残念ながらもう誰も分からない。まあ、しかし、どちらでもいいだろう。どうであろうと三河田口駅まで最後まで森林鉄道が残っていたのは事実なのだから。
鰻沢線と栃洞線の関係も同じである。鰻沢線が本線で栃洞線は途中から分岐していたにもかかわらず、鰻沢線のほうが栃洞線より早く撤去されている。普通に考えれば先に撤去されるのは栃洞線であるはずだ。先に田峯から延びる鰻沢線が撤去されては、栃洞線が残る意味がない。このことにも疑問が残る。
田口、田峯とも同じ状況なので今の我々には分からない共通の事情があったのかもしれない。しかしこちらも田口同様、今では調べようもない。
当時の運転手の話では、森林鉄道段戸山線では動力のついたものを「機関車」と呼び、田口、団子島にそれぞれ2両ずつあったそうだ。機関車はガソリンと木炭の併用で、用途に応じ弁を切り換えていたという。スタート時や土場での木材の牽引など短時間の移動はガソリンを、それ以外、長時間の移動は木炭を使用したのである。軌道の狭い軽便鉄道であったため当時の作業者はしきりに「けいべん、けいべん」と呼んでいた。
動力の無いトロッコは手動のブレーキ付だった。
森林鉄道段戸山線では朝、機関車にトロッコを連結し、トロッコの上に作業者が乗り機関車で引っ張って山の上にある土場へ向かい、そこでトロッコを切り離すと機関車は何も積まず機関車だけで森林鉄道の始点(三河田口駅や田峰駅)へ帰ってきた。土場に残ったトロッコには終点の奥から索道(ワイヤーで吊って荷物を運ぶ装置・ロープウェイのようなもの)で土場まで下ろした木材を積み込み、トロッコが木材で一杯になるたび1、2人ずつトロッコに乗り軌道の坂を下り森林鉄道始点(田口駅や田峰駅)の土場へ帰ってきた。ほとんどが下りのため動力は必要なく、ブレーキをかけるだけで概ね始点まで辿り着くことが出来た。ブレーキ材は木の端材で作ったものだったため、ブレーキを掛けるたび木が焦げる匂いがしたという。言われてみれば確かにそうだが、教えてもらわなければ分からない事実だ。傾斜がなだらかな田口の手前、三都橋の津島神社あたり、田峰の手前あたりでは機関車が力を貸した。田峯では機関車の代わりに犬が引くこともあり、その犬を専門に飼っていた人もいたそうだ。他の森林鉄道では犬だけでなく馬が引いたという記録もあるようだが、分かる気がする。
森林鉄道では機関車が木材を乗せたトロッコを山から引っ張ってくるようなイメージがあるが、段戸山線ではそのようなことはほとんど無く、動力の無いトロッコに木材を積んで高低差を利用して始点まで帰ってくるのである。作業者へインタビューするまでエドも知らなかった興味深い事実である。このようなことができるのは、土場が始点より相当標高が高い場所にある場合に限られるであろうから、段戸山線ならではの仕組みだったのかもしれない。
当時の写真を見るとトロッコに溢れんばかりの木材を積んでいたが、出来るだけ多く積むのは出来高制だったからだったという。
しかしこのような仕組みが災いしてか、トロッコから誤って川に転落して作業者が死亡するという不幸な事故もあったという。現在の労働基準監督署が聞いたら目が点になりそうならおおらかな時代だったと言えそうだ。トロッコのブレーキは拍子木ほどの大きさの木で出来ており、一回下るために数個必要だった。作業者だった方によると、出発前、このブレーキ材を作ることも大事な仕事の一つだったそうだ。
土場よりさらに奥の伐採場所から索道で森林鉄道終点の土場まで降ろす際は、案外バラバラに吊り下げるので、土場でそれを整理してトロッコに積み込む必要があった。今のようにフォークリフトなどは無い時代だったのでトビを使ったマンパワーに頼らざるを得ず、その作業は相当大変だったようである。
話は変わり、エドは当時の作業者7人にインタビューしたがすでにほとんどの方が鬼籍に入ってしまった。したがって当時の作業者からの情報収集はこれ以上難しく、当時の段戸山線について新たな情報を得ることはできなくなってしまった。
残念だがこのあたりで筆を折ることにしよう。
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